僕が物心ついたころは、トレンディドラマ最盛期。スーツで働く生活に憧れがあって…。親は農業をやっていたし、僕もいつか継ぐのかな?と思いつつも、社会人になってしばらくは東京でサラリーマンを経験しました。
でもある時、テレビや新聞で愛媛県や久万高原町の記事を見るたび、生まれ育ったふるさとに想いがあることに気づきました。色々な仕事を経験する中でも、やっぱり生まれ育った地元での農業への思いが忘れられず、家業を継ぐことを決意しました。もし農業だけやっていたら、ほかの業種への憧れも捨てきれず迷いもあったと思うので、ほかの仕事をしながら農業について考えられたことはよかったなと思います。
サラリーマンとは違うやりがいを求めて始めたものの、農業は天候相手の仕事で、帳面で数字をはじくようにはいかない。台風があったり、作物に病気がでたり…。まず、自然の力の強さを実感しました。
そんな時、憧れのアメリカで農業研修ができるという取り組みを知り、迷わず参加しました。2年間、アスファルトの道路も隣の家もない、砂漠の中の牧場のようなところでの生活。「日本では当たり前のものがない、その中で本当に必要なもの、不必要なものって何なんだろう?」とずっと考えていました。
アメリカでの一番大きな出会いは、牧場で一緒に仕事をした仲間のカウボーイたち。彼らはカウボーイという仕事に誇りをもち、生活すべてを楽しむ術を知っていて、とてもカッコよかった。ダンスパーティーやロデオ大会も心から楽しみ、そして常に明るいんです。
僕はそんな豊かさをアメリカから帰ってきても忘れないでおこうと、テンガロンハットをかぶりはじめました。いまではすっかりトレードマークになって、ないと逆に恥ずかしいし、帽子がないと誰にも気づかれないという状況です(笑)。
農業をやっていると、本当にいろんな問題に直面し、やめようと思ったことは数え切れないほどあります。でも、やはり生まれ育ったところで農業をやりたいと思う気持ちと、困ったときに助けてくれる人がいるという環境のおかげで、踏ん張れています。サラリーマン時代の仲間や、アメリカに農業研修に行った同志など、全国の仲間からもいろいろと知恵を借り、助けてもらっています。
僕が大切にしているのは「字を書き、汗をかき、恥をかけ」という言葉。何かやろうと思ったらとにかく勉強、思いついたことには一歩踏み出し、あとはがむしゃらに突き進む。そういった気持ちで東京の展示会に出展してみたり、レストランで声をかけてみたり…。たくさん失敗もしましたが、全部成功すると思わず「100軒営業して、その中で2〜3軒とれたらいいや」と思えば気分がラクになりました(笑)。
何かアクションを起こさないと新規のお客さんは増えないという前向きな気持ちを持てたのも、営業職を経験していたからこそだと思います。
愛媛県で農業をするにしても、愛媛県の外から見てみることはとても大事です。さらに大きな視点では、日本の農業を外国から見たとき、日本ってどうなんだろう?と考えることは大切なこと。きれいな水があり、緑があり、春夏秋冬がある…日本では当たり前でも、ここまで農業に恵まれた土地というのは、世界でも数少ない。その中で農業ができるありがたみを感じながら農業をすれば、もっと日本の農業って変わるんじゃないかな、と思っています。う若い人は減っています。花を送る習慣もなくなって、お誕生日すら最近、お花をもらって喜ぶ人が減ってきたようで…。
お客さんから「これおいしかったね。またお願い。」と言われると嬉しく、本当に身の引き締まる思いがします。直接お客さんとふれあうときが一番笑顔になれる瞬間です。
都会の人が久万高原町に来たとき「ああ自然っていいな」と心を和ませて帰られますが、この見える景色、実は本当の自然ではないんです。田んぼの草刈りをし、耕作放棄地がないようにと頑張る人の努力の結晶が、人の心を癒やすことにもつながっている。そうと思うと、僕も頑張ろうと思えます。
農業はきつい汚い、といった漠然としたイメージではなく、日本の食を支えているという誇りを持てる職業。だからこそ、胸を張って明るく仕事にチャレンジしてほしいです。
都会と田舎の交換留学のような、子どもたちのための山の学校をいつかやってみたいです。田舎の子が都会に、都会の子が田舎に来ることで、お互い違った環境から自分の環境を見つめ直す事もできますから。
将来、例えば東京の子が「僕には愛媛に友達がいて、田舎みたいに行き来ができるところがある」と言えるような交流をしていけば、鮮明に記憶に残る素晴らしい体験になるんじゃないかな。僕がアメリカで経験した、あのなにもない世界で自分の内面的なことに気づけたように、今の若い人たちにそういった時間を上手に提供し、今後の彼らの生活の中でプラスになってくれたらいいなと思っています。