一色雅典さん(以下:雅)、一色健太郎さん (以下:健)
健:この仕事に就くまでは東京にあるアパレルの会社でファッションデザイナーをしていました。転職を決断したのは、祖父が亡くなったのがきっかけでした。一年半くらい、家族のことや地域のこと、これからの農業のこと、思い当たることは全部、ずっと考えていました。
新しい環境や仕事に飛び込むことが一番不安でしたが、就農するときはもう不安もなかったです。
健:仕事は何もかも楽しいです。目に映るもの、作業すべてが新鮮で。同じことをやっても季節とか天候によっても全然変わってくるので、それが普通の職業にはないところだと思います。
仕事で大変なことは、定期的な休みがないことくらいでしょうか。基本的には転職してよかったと思うことばかりです。東京にいるときよりも、身近に家族がいて地元があってという環境は、とても充実しています。
農家の方は比較的喋ってくれるんですけど、重要なところはあまり喋らないときもあったりするので、サラリーマン時代のようにコミュニケーション取るってとこではちょっと無理をしながらでもやっています。アパレルの仕事の頃は比較的みんな個性が強かったので、人と人の間に立って取りまとめ調整する、その経験が今の仕事でも生かされています。
仕事では常にちょっとずつ努力して成長できるようにする、そして日々の生活水準をちょっとずつ上げることを日々のテーマにしています。いちごづくりでも、ちょっとずつクオリティー上げていくことを続けていれば、いつか今までにないいちごが作れるんじゃないかと思ってます。
雅:息子が地元に帰ってくるというのは意外でした。「帰って農業をやる」と突然言われ、彼の決心がどこまでかがそのときは計り知れず。話を聞いてみると先のことをよく考えていて、最近の若い子も結構やるな、と感心しました。
とはいえ、困ったなぁとも思いました(笑)。最近の農業情勢では後継者がいないというのが一般で、私らも女房と二人で規模を縮小しながら終えたらいいかなと話していて。息子が帰ってくるとなると、それなりにまた頑張らんといかんという気持ちもありまして(笑)。嬉しいことも当然あったんですが反面、複雑な気持ちでした。
私は約17年前に現在の高設栽培というのを愛媛県で初めて行いました。私の場合、労働力が女房と二人きりでしたので、大きな面積をこなそうと思っても労力的に無理で。
高設栽培は立ったままの作業ですから、もの凄く省力化ができると思いついたんですけど、最初は失敗が三年くらい続きました。それから研究を重ねいろんな人の助言を得ながら現在の形ができました。
息子が帰ってきて、彼の考えを聞くようになって、今までの農業者は、地域のことや農業全般のことをもっと考えていくべきだったなというのは反省しました。後継者が今いないという状況を作ったのも、我々世代以上の農業に対する姿勢。最近の若い人は、よく考えてますよ。ほんとに地域のことか農業全体のこととか未来を考えて自分が就農するという意味を持ってますから。
健:僕が笑顔になれる瞬間といえば、やっぱりいいいちごが採れたとき。天気とか自分の日々の作業とかが、結果として良い実に現れた状況ができたときは「ぱあっ」と笑顔になる。嬉しいです。
雅: うちのJAは周ちゃん広場という直販所を持ってるので、「一色雅典さんのいちごがほしい」と言われるお客さんがいらっしゃるみたいで、それは大変嬉しいですね。あと孫がいちごが大好きで、それを「ジイジのいちご」と言ってくれるのは本当に嬉しいですね。
健:僕は始めてまだ6年なので、これから僕ら世代の人とか若い人が農業でご飯が食べれるというか、もっと儲けれるような仕組みとか技術的なものも含めてもっと成長させていきたいです。
雅:農業は、今からどんどん面白くなってくると思います。農業始めるには今が最高の時期じゃないかと思います。応援してくれる先輩農家もいますし、今後のやり方次第でどんなにでもできる職業だと思いますので、大いにチャレンジをしてもらいたいです。息子はちっちゃい頃から全然うちのいちごハウスに来たこともなかったけど…(苦笑)。そういう人でも、やってみようという覚悟さえあれば、何とかやれるんですから。まあ息子は、まだまだこれからだと思いますけど(笑)。
健:今までの流れを大切にしながらも、新しいことに挑戦していきたいです。加工品を作るとか、今まで時間がかかってしんどかった仕事を少しずつ分散させ、かつ儲ける仕組みみたいな。欲張りながらいろいろやっていきたいと思ってます。
雅:農業は割とワンマンプレーでやってるようなイメージを世間の人は持っていると思うんですけど、実はものすごくその地域とは関わりが強いんです。自分だけが儲かったらいいという感覚ではなく、農業することによって地域が明るくなってみんなの輪ができて楽しい地域活動が送れるような農業をしてみたいです。